2015年10月11日日曜日

ミハイル・バクーニン『ドイツにおける反動 ー 一フランス人の覚書』②ー破壊の実践精神

ミハイル・バクーニン『ドイツにおける反動 ー 一フランス人の覚書』①ー絶対的自由という宗教の続き。

肯定的なもの(反動派)と否定的なもの(民主派)との対立。この時、否定的なものは絶対的自由を意味する。この絶対的自由があらゆる反動的なものを否定し、破壊することを正当化する。バクーニンにおける絶対的自由とは何なのだろう。この絶対的な破壊性を帯びる否定的なものは、新しく創造される文化の足場をどこに求めれば良いのだろう。

妥協的な反動主義者は、反動派と民主派の対立において双方の立場が一面的なものであると批判する。そして、真理はその中間にあると述べ、相互に結合することを求める。「一見したところ、この推論は反駁しがたいようである」。
確かにわれわれ自身も認めたように、肯定に対立してさらにその対立に際して自己の内に閉じこめられているかぎり、否定の原理は一面的であることを免れない。(p24)
しかしそれは現実に可能ではない。なぜなら、「否定的なものの意味は、肯定的なものの破壊にこそある」からである。

◎隠された統一
一面的な二つの項を包摂するものとしての対立それ自体は、全一的であり、絶対的であり、真理である。その一面性とそれに連なる皮相性、貧困を非難してはならない。そこには否定的なものと肯定的なものが含まれ、すべてを包摂するものとしてそれは全一的であり、絶対的であり、自己を措いては完全性を持たないからである。このような状況から、一面性を持つ二つの項の一方だけを取りあげるのではなく、両者を必然的な関係のなかでなんらかの全一性としての不可分な関係のなかで取りあげる必要を、妥協派は主張する。彼らの言うところによると、対立だけが真理なのであって、それ自体として取りあげられた対立諸概念の各々は一面的で、しがって正しくない。それゆえ真理を獲得するには、対立をその全一性において取りあげねばならないことになる。ところが、まさにこの点から困難が生じ始める。対立は確かに真理である。しかしそれはかかるものとして存在するのではなく、それが発現するのはこのような全一性としてではない。それは自己の内部においてのみ実在する隠れた全一性であって、まさにその存在が肯定的なものと否定的なものという二つの項と矛盾する分裂になっているのだ。全一的真理としての対立は、一つになっている単一性と自己分裂性との不可分な統一である。これはその内部に存在する、隠れた、と同時に間近では把握されない本性であって、この統一が隠されているからこそ、対立は両項の分裂として一面的に存在することになる。それは肯定的なものと否定的なものとしてしか発言せず、しかもこの両者は互いにきびしく排除しあうので、この相互排除がそれらの本性となる。だがそうなると、対立の全一性をどのように理解すればよいのか?それには、二つの方式が可能と思われる。意識的に分裂を無視し、対立の単純で分裂に先立つ全一性に目を向けるべきだとするのが一つ。しかしこれは不可能である。かつて把握し得なかったものは依然として把握し得ないし、対立それ自体は直接には分裂によってのみ存在し、それを措いては存在しないからである。もう一つは、対立する項を慈母の愛をもって和解させようとする方法である。妥協派のねらいのいっさいは、ここにある。(p26)

対立が存在する。対立物が互いに一面的であり、片方だけでは真理ではない。しかし対立自体が真理であり、その調停をすれば真理に到達すると考えることはできない。その対立が発生した本源的な場処がある。対立物それ自体が生じてくるようなある全一性の場が存在している。しかしその隠された場を把握することはできない。そのような場が存在する時、そこには必ず対立が存在しているからである。対立の先立つ全一性はあるだろう、しかし対立もあるだろう。この部分のバクーニンの説明をうまく理解することができない。通常取られるであろう原理的な思考を真っ先に否定している。

◎肯定的なもの=無運動性、否定的なもの=運動性
なにはともあれ、あらゆる運動は否定に通ずるのである。そして肯定的なものは、まさにそれ自体無運動性が措定されるものであり、絶対的無運動として反省されるものである。ところが、無運動の反省は運動の反省と密接に関連している。あるいはもっと正確に言うと、両者は同じ一つの反省を構成しているのだ。このように、絶対的定状態である肯定的なものは、絶対的不定状態である否定的なものとの関連においてのみ、はじめて肯定的なものとなる。肯定的なものは自己の内部において静止し、それ自身生きた規定としての否定的なものに関係づけられている。こうして、肯定的なものは、否定的なものに対して二重の立場を有することになる。一方では、自己自らの内に静止し、関係を排除するこの定状態のなかで、なんら否定の原理とのつながりを持たない。しかし、もう一方では、まさにこの無運動性のおかげで、自己の内部で否定的なものに対立するものとして、それは否定的なものを活発に自己の内から排除しようとする。だがこの排除の活動は運動であって、かくして肯定的なものはまさに自己の肯定性のおかげで、自己それ自体にかんして肯定的でないもの、否定的なものとなる。自己の内から否定的なものを排除することによって、それは自己そのものから自己を排除し、自ら自己を破壊へと追いやる。(p27)
肯定的なもの(それ自体であるもの)はそれ自体を自覚しない。しかし、否定的なものは、これに対立し、破壊の運動をしかけることによって、肯定的なものを現す。
革命勢力と警察との関係のようなものとして考える。強調部位のバクーニンの論理、結論はよくわからない。なぜそう結論されるのか。排除が運動であり、運動が否定を意味するとしても、肯定的なものが破壊されるとは限らないだろう。帝国は帝国であることをやめない。政治の話をしているのか、哲学の話をしているのか、社会の話をしているのか、生命の話をしているのか、人間存在の話をしているのか、わからなくなってくる。

秩序の話をしているのか。
バクーニンにとって、否定的なものとは肯定的なものの破壊である。そこに価値がある。それだけが生命を与えるからである。

◎対立における否定的なものの優位
肯定的なものと否定的なものは、妥協派の考えるように同義ではない。対立は均衡ではなく、対立のうちでは優勢な契機を構成する否定的なものが《優位》になる。肯定的なものそれ自体の死命を制する否定的なものは、自己のなかだけに対立の全一性を含んでいる。したがって、絶対的に権能を有している。おそらく、私は質問されるだろう。それ自体として抽象的に取りあげられた否定的なものは、肯定的なものと同様に一面的であり、現在の不完全な形でそれを普及させることは全世界の卑俗化を意味するのを、あなた自身認めないのか、と。確かにそのとおりだが、私が申しあげたのは否定的なものの現在の存在形態、肯定的なものによって排除され、自己の内に静止したまま閉ざされており、その結果肯定的なものと転じている否定的なものについてだけである。このような形態では、否定的なものもやはり肯定的なものによって否定され、徹底した肯定派は否定的なものの存在、定状態にあるその自己閉鎖を排斥するとき、論理的には神聖な義務を果たしていることになる。だが、彼らは自分で自分のしていることがわからない。彼らは自分たちが否定的なものを否定していると思いこんでいるが、実際には、それ自体が肯定的なものになるかぎりでしか否定していない。彼らは否定的なものを本来の姿ではない俗物的安穏からゆり起こし、肯定的で確立されたいっさいの破壊という偉大な使命へと、否定的なものをたち帰らせるのである。(p28)

解ったぞ、肯定的なものとは自足的なものであり、即自的なものであるのに対して、否定的なものは破壊的であり、自己破壊であり、自足的なものの破壊へと突き進む。スピノザのコナトゥスとニーチェのコナトゥス批判のように考えれば良いのだ。そして、否定するものであったものが活動を停滞させ、定常状態に入ることをも、バクーニンは否定しているのだ。バクーニンにとっては、どこかの田舎でコミューンをつくって慎ましく暮らそうという発想などは弾圧されて然るべきなのだろう。死回避行動(death avoiding behavior)と生命行動(living behavior)とパラフレーズしても良い。ある肯定的なものと否定的なものがあり争っているのではなくて、ある肯定的なもの(例えば国家)と対立している否定的なもの(革命組織)でさえも肯定的なもの(活動のルーティーン化、あるいは形骸化)になりうるのだ(謂わば妥協的民主派)。そして、そのような否定的なものなど破壊されることをバクーニンは望む。締め付ければ締め付ける程、否定の力は先鋭化する。

◎否定の原理は非利己的であること
否定的なものが自己の内に静止し、利己的に閉じこもり、かくして自らを裏切るなら、肯定的なものと否定的なものは等価であることを認めよう。だが否定の原理は利己的であってはならない。愛をもって、肯定的なものに身を委ねなければならない。それが肯定的なものを吸収し、破壊というこの宗教的で信仰あふれる命をかけた大事業において、その本性の汲めどもつきぬ未来をはらんだ深みを開示するため、ぜひともそれが必要なのだ。肯定的なものは否定的なものによって否定され、逆に、否定的なものは肯定的なものによって否定される——両者に共通なものはなんであろうか?そして両者のうち、いずれが高次なのであろうか?たとえ肯定的なものが否定的なものを隠れみのにしようとも、それを否定し、破壊へと追いやり、積極的に揚棄する、ただこのようなはてしない否定としてのみ否定的なものは存在の権利をもつのであり、それ自体としての絶対的な正当性を得る。なぜなら、かかるものとしてはじめて、それは実践精神に不可視的に内在する対立においても正当性を持つからである。実践精神は、この破壊的激情によって妥協派の罪にけがれた魂に懺悔を命じ、真に民主主義的で全人類的な自由の教会で、間近きキリストの再臨と天啓を告げるのである。(p29)
否定的なものが肯定的なものを否定することによって、肯定的なもの自体が否定的なものになること。
さっぱり意味がわからなくなってきた。

◎否定的なものによる肯定的なものの自己解体
肯定的なもののこのような自己解体は、肯定的なものと否定的なものとのただ一つ可能な紐帯である。なぜなら、自己解体は対立そのもののエネルギーへと向かう内在的全一的な運動であって、したがってこれらの原理を媒介するほかのどんな方法も恣意的であり、他の方法を求める者はいずれもそれだけで自分がまだ時代精神に満たされておらず、しがって愚鈍か無定見であることを証明するはめとなるのだ。この時代精神に完全に身を挺し、それを具有する人間だけが聡明で道義正しいと認められる。対立は全一的で、真理である。この点については、妥協派も反駁しない。全一的なものとしてのそれは終始生命を有しており、その包括的な生のエネルギーは、今しがた見たとおり、否定的なものの純粋な焔による肯定的なものの自己燃焼のなかに現れる。(p30)
否定的なものの全体性、ユートピア精神。アンチ現状。永遠の反逆。反逆の徹底。理想の徹底。終わりなき運動。
否定的なものとの生き生きとした闘争、対立の生き生きとした存在という現実性。
闘争の時に、対立の時に現れるこの精神の全体性の肯定。

創造する立場、創造する者は破壊しなければならない。場所を開けさせなければならない。中途半端な仕事で創造はできない。

◎妥協派の無力
なるほど、私は次のように反論されるかもしれない。あなたには妥協派の努力が黒く、より正確に言えば灰色に見えるのだ。だが彼らが衷心から欲しているのは、ただ一つ目標としているのは進歩である。彼らは、あなた自身も及ばぬぐらい進歩に貢献している。全世界の転覆を願う民主主義者たちのように思いあがりからではなく、彼らは理性的に問題に接近しているからだ、と。しかし妥協派のめざす虚構の進歩がいかなるものか、われわれがすでに見てきたところであって、現代を惨状から救う唯一の生き生きとした原理に対する抑圧、解放運動という創造的で未来豊かな原理に対する抑圧に他ならないものとして、それはたち現れている。われわれ同様彼らも、現代が対立の時代であることをはっきりと理解している。それが醜悪で、内部分裂の状態である点については、彼らもわれわれに同意する。ところが、それをどこまでも徹底させ、新しい、肯定的で有機的な実在性へと移行させる代わりに、彼らは無限の漸進によって、それを現在のような惨めで虚弱な状態に永遠に維持しようと願うのである。はたしてこれが進歩だろうか?彼らは肯定派に言う。「古きを温存したまえ。ただし同時にそれを否定派に少しずつ壊させてやりたまえ。」そして否定派に向かっては、こう言うのである。「古きを破壊したまえ。ただし、いつでもあなたがたに仕事が残るように、ほどほどにやりたまえ。」そして否定派に向かっては、こう言うのである。「古きを破壊したまえ。ただし、いつでもあなたがたに仕事が残るように、ほどほどにやりたまえ。つまりそれぞれの一面性を残しておきたまえ。そうすれば、われわれエリートが自らのために全一性を確保して楽しめるから。」——なんたる哀れな全一性か!こんなものに満足できるのは、心貧しき者だけである。彼らは対立から運動する実践的精神を奪い去り、対立を勝手気ままに制御できるのを喜んでいるのだ。現代の偉大な対立は、彼らにとっていささかも現代の実践力ではなく、たんなる理論上の手なぐさみにすぎない。もし生き生きとしたものでありたいと願うなら、それぞれの生きた人間は実践力を身につけるべきである。彼らは時代の実践精神にあふれていないからこそ、人倫を欠いた人々なのだ。彼らが自己の道徳性を誇示すればするほど、人倫を欠いた人間となる。なぜなら、自由な人間性という至福の教会の外では、人倫などあり得ないからである。(p34)
社会には膜がある。膜の名前はヒューマニズムと呼ばれる。
マルクスが労働組合は共産主義の学校と呼んだことに似ている。
実践精神を欠いた者に人倫や、自由など獲得できない、俺もそう思う。
理論で云々する者よりも、自由な人間を創造することの方が大事だ。

自由=否定。

近代的理念は普遍的であり包括的であり世界的であることを標榜する理念である。この理念の完全なる実現をめざす。普遍宗教。もちろんその理念の実現はなされていない。

自由・平等・博愛の実現を求める実践運動が、現存政治社会体制の完全の廃棄を意味することに異論はない。これは宗教運動である。革命家とは近代的な宗教家である。
革命家とはズバリどんな仕事ですか?「ズバリ神の代理人です。革命とは近代的な宗教であり、その指導者たる革命家はつまり近代的な宗教家です」(外山恒一『革命家になるには?』
◎妥協派の分別、われわれの時代のペスト
諸君、最後にご自身を反省していただきたい、そして率直に言っていただきたい。あなたがたは自らに満足しているのだろうか?また、満足できるのだろうか?あなたがた自身、例外なしに、惨めで哀れな現代の、さらに惨めで哀れな現象を代表しているのではなかろうか?あなたがたは、矛盾だらけではないだろうか?あなたがたは完全な人間だろうか?あなたがたは、現実になにかを信じているのだろうか?なにを望んでいるのか、自分でご存知なのだろうか?大体からして、あなたがたは望むことができるのだろうか?現代の分別というこのわれわれの時代のペストは、あなたがたのなかに一箇所でも生きた部分を残しただろうか?あなたがたは頭のてっぺんから爪先まで分別に覆われ、分別に麻痺し、分別にさいなまれているのではないだろうか?諸君、実のところ認めてもらわねばならないが、現代は悲惨の時代であって、われわれはみなそのいっそう悲惨な申し子なのだ。(p42)
『ドイツにおける反動』を読んで解るのは、バクーニンは明確にアナーキズム(近代的理念の徹底)を宗教として理解していることだ。宗教運動だからこそ、徹底性や情熱がある。革命を起こすのは原理主義なのである。

◎破壊への情熱は、創造への情熱
いたるところで、とりわけフランスやイギリスでは社会主義的宗教的な結社がつくられつつある。これらは今日の政治世界とはまったく無縁であり、完全に新しい、われわれのあずかり知らぬ源からその生命を汲み取り、ひそかに普及発展させている。疑いもなく人類の大半を構成する人民、貧困階級は、すでに理論的にはその権利が認められているものの、出生と境遇のために、これまで無産階級、文盲したがって事実上の奴隷状態におかれてきたのであった——元来が真の人民を構成するこの階級は、いたるところで脅威的な地位を占めつつあり、比較的弱い敵の戦列を味方に引きこんで、すでに公認の自己の権利を実体化すべく要求し始めているのだ。すべての人民が、すべての人々がなぜとはなしに予感を抱き、動脈硬化に陥っていないすべての人々が期待に胸を震わせながら、解放の言葉を宣する来るべき未来を見守っているのだ。われわれにとって未知の、そして偉大な未来の近づきつつあるロシアのような、雪にとざされた永劫の王国にすら、雷雨をはらんだ暗雲がたれこめようとしているのだ!おお、大気は熱気を秘め、嵐をはらんでいる!
 だからこそ、われわれは迷える同胞たちに呼びかける、悔い改めよ!悔い改めよ!神の御国は近いのだ!
 われわれは肯定派に申しあげる。「あなたがたの心の眼を開き、死人の埋葬は死人にまかせ、そして最後に、永遠に若き精神、永遠に再生する精神は崩れ落ちた廃墟のなかには求め得ないことを得ない!」そして真理に対しその心を開き、惨めで盲目の英知から解放され、心を枯渇させ運動を阻んでいる理論的高慢と奴隷的恐怖心を捨て去るよう、われわれは妥協派に勧告する。
 永遠の破壊と廃絶の精神を信じようではないか。それだけが、いっさいの生命の汲めども尽きせぬ永遠が創造の泉なのだ。破壊への情熱は、同時に創造への情熱なのだ!(p42)

2015年10月9日金曜日

ミハイル・バクーニン『ドイツにおける反動 ー 一フランス人の覚書』①ー絶対的自由という宗教

ミハイル・バクーニン『バクーニン著作集』第1巻(白水社)より、左近毅訳。強調は引用者。

◎自由の信仰
自由、自由の実現、いまやこの合言葉が歴史の日程の冒頭にあることをだれが否定するだろうか?しかも自由の敵見方を問わずそのことを認めているし、また認めなくてはならないのだ。それに、だれしも自分が自由の敵であるとあつかましく公言する者もあるまい。しかし、すでに福音書が知っているように、事実を素直に認めたところでなにもならない。というのは、残念ながら、じつは心の奥底では自由を信じていない人間が相変わらずいるからである。問題そのもののためにも、こういった人たちのことをよく知っておく必要がある。彼らはその性質上、ひじょうに種々雑多だからである。そのうちでまず最初におめにかかるのは、地位が高く年輩の、識見ゆたかな人たちである。青年時代には、彼らとても政治的自由のディレッタントだった。なぜなら、身分の高い金持にとっては、自由や平等についての話題はいくぶんセンセーショナルな楽しみをともなうものであるし、おまけに社交界では倍も人目をひくことになるからだ。ところが、青年期の物事に熱中する力がおとろえてしまったいま、彼らは「経験」のかげに身をひそめてその肉体的精神的老化を隠そうとする——「経験」とは、じつにひんぱんに悪用のきっかけを与えてきた言葉である。だいたいからして、こういう人たちと話合いをするのは無意味である。彼らはいつだって自由をまじめに考えたことはないし、彼らにとって自由が信仰であったことはいちどもない。もっとも深刻な矛盾、もっともつらい苦しみ、完全で無条件の克己にのぞんではじめて、信仰は最大の愉悦、至上の幸福をもたらしてくれるものなのだ。彼らは老残の身で、おっつけよんどころなく彼岸に旅立つことからして、彼らと話合うのは無駄である。(p10)
誰も自由なんて求めちゃいない。「大衆」は特にな。自由からの逃走。

◎信念を抱かぬ若者は日常に埋没している
ところが残念なことに、若い人たちでもこれと同じような信念を抱いたり、あるいはもっと正確に言えば、なんらの信念も抱かぬ者が多い。こういう人たち(しかもこれが大部分なのだ)は、ドイツではそもそもが、政治的にはすでに死んでしまった貴族階級、あるいはブルジョア階級、商人階級、官僚階級に所属している。こういう人たちともかかわり合う必要はない。第一のカテゴリーの、世故にたけ老練で、棺桶に片足つっこんだ人たち以上にかかわり合う必要はないのである。前の第一のカテゴリーの人たちにはまだしも生命の片鱗らしきものがうかがえたが、こちらははじめから生気がなく死んでいるのであって、出世とか金儲けにどっぷりと浸りこんで、自己の日常的な瑣事にすっかり溺れている。彼らは人生や、自分の周囲に生じている事柄についてはなに一つわからないものだから、学校で歴史とか人間の心の発達についてあれこれ教わっていなかったら、たぶん世界はいつも今と同じだと思うにちがいない。これこそ、色あせて幻にもおぼしい人間たちである。彼らは毒にも薬にもならない。生あるものだけが影響を及ぼすのだから、彼らはなんら恐るるに足らない。それどころか、現在ではもう幻影を取りあげるのは流行らない。しがって、われわれもそんなものに時間をさくつもりはないのである。(p11) 
「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている」(マタイの福音書15-8)。僕たちの唇は自由を敬うが、その心は自由への信仰から遠く離れている。

◎反動派とその優勢
革命の原理に反対する人たちの第三のカテゴリー、《反動派》。政治においては《保守派》、法学では《歴史学派》、思惟科学では《実証哲学》と呼ばれている。これらの勢力はいまやいたるところで支配権を握る一派になっている、とバクーニンは書いている。

バクーニンにおいて民主主義という言葉はアナーキズムと同義と見なしてよいだろう。ただ、民主主義の徹底がアナーキズムを意味することは自明であろう。意義なし。
民主派にとって、今は一時ながらも自分たちの力が微弱で、敵の力が相対的に強いことを認識するのがなによりも必要である。このような認識に立ってはじめて、民主派は得体の知れぬ幻想の領域から現実へと踏み入る。民主派は現実のなかに生き、苦悩し、そして結局は勝利するにちがいない。さらにこのような認識に立ってこそ、民主派の呼びかけは周到にして着実なものとなる。そして現実のつらい試練を経てはじめて、民主派は自己の神聖な任務に目覚めるのである。いたるところで行手をさえぎり、しかもじつは往々にして思いこんでいるように敵の蒙昧主義ではなくて、むしろ抽象的な理論では汲みつくせぬ人間性の豊かさと多様性に起因する、はてしない困難を通して、民主派が自己の現存在の不完全をことごとく悟り、それを悟ることによって、敵は外部にいるばかりか少なからず自分自身の内にいること、そしてまずこの内部の敵にうち勝つところから始めるべきことを理解するときこそ、さらに民主主義がなにも漢検に反対したり、なんらかの特殊な憲法上の改革や政治=経済上の改革に限られるのではなく、全世界の機構を完全に変革し、史上例を見ないまったく新しい生活を予告するものであることを確信するときこそ、そして以上の点から、民主派が民主主義は宗教であることを理解し、それによって自らも宗教的になる、つまり思惟と判断において自己の主義をつらぬいているだけでなく、実際にも、ちょっとした生活の現象でも主義に挺身するときにこそはじめて、民主派は現実の中で全世界に勝利するのである。(p13)
まったく新しい生活、それはなんだ?我々はいつだって歌い踊り舞い舐めては喰らい、戦っては死ぬ。いや、誰も踊ってなどない。歌ってなどない。日陰のアスファルトに生える、しなだれたたんぽぽのような生活。
理想追求の生活における現実的苦悩の一つは経済的困窮である。社会的苦悩は周囲から白眼視され、理想を理解されないことである。それが理想を追求する者に運命づけられているものである。しかし、最後には必ず勝利するだろう。歴史の終局は歴史の始まりである。誰もが皆、この地点で悩む。この理想と現実との関係に対する距離を測るのだ。
大なる理想を孕める者は、その理想が自分の内面に作用する力を刻々に感ずるであらう。此理想を實現するの困苦を泌々と身に覺えるであらう。さうして征服し盡されず、淨化し盡くされず、高揚し盡くされざる自分の現實に就いて堪へ難い羞恥を感ずるであらう。而も彼には直接内面の心證あるが故に、此屈辱と羞恥の感情を以つてするも、猶ほ此理想を抛擲することが出來ない。理想を負ふ者の矛盾と苦痛と自責と屈辱とを耐へ忍ぶ事は避く可からざる彼の運命である。
 併し理想を負ふ者の苦しみを嘗め知らざる者は、此間の悲痛に就いて同情を寄せる事が出來ない。彼等は輕易に理想家の内に行はるゝ理想と生活との矛盾を指摘して、直に理想そのものと理想家その人とを否定する。故に理想家は内面的矛盾の苦しみの外に、又社會の罵詈と嘲笑とをも忍ばなければならない。トルストイのやうな一生は實に理想を負ふ者の代表的運命である。多かれ少かれ、理想を内に孕めるものはトルストイの運命を分たなければならないのである。
 逃げむと欲する者は逃げよ。逃げむと欲するも逃げ得ぬ者は勇ましく此悲痛なる運命を負ふのみである。(阿部次郎『三太郎日記』その二
バクーニンは、反動派の勢威が偶然によるのではなく、必然によることを率直にうけとめ、むしろ近代精神に深く根ざしたものであることを認めたいと言う。民主派は、たんに現状の《否定》として存在する《にすぎない》。

現実社会で反動派が多数派、主流派、支配的イデオロギー、権力を握っている以上、それは「肯定的なもの」と呼ばれる。「否定的なもの」である民主派の存在によってそう呼ばれる。
民主派は自己の原理を確信するに至っておらず、したがってたんに現状の《否定》として存在するに《にすぎない》。かかるものとしてあるかぎり、ただ否定にとどまるかぎり、どうしても民主派は統一ある生活全体の外側に立つことになるし、もっぱら否定の意味に解されたその原理からは、生活全体を展開することはまだできない。だからこそ、それは今日に至ってもたんなる党派であって、まだ生きた現実とはならず、未来のものではあっても現実のものとはならないのだ。民主主義たちは党派を、それも外的存在条件のために微弱な党派を形成しているにすぎないこと、しかもたんに党派としてはもう一つの、彼らに対立する強力な党派の存在が予想されること、この一事をもってしても、彼らは自分たち自らの欠陥、必然的につきまとう欠陥に対し眼を開かねばならないだろう。その本質、その原理からすれば、民主派は普遍的、包括的であるが、その党派としての存在からすればある特殊なもの、《肯定的なもの》に対峙するのである。否定的なものの意味と不可抗の力は、ひとえに肯定的なものの破壊にある。だがそれは悪しき定有、特殊な定有、本質上不敵な定有として、肯定的なものとともに自らも破滅の道をたどる。民主主義はそれ自体まだ肯定の豊かさのなかに存在するのではなく、肯定的なものの否定として存在するのであって、それゆえ民主主義はその未完の姿で肯定的なものとともに滅びなければならず、その後で自己の生きた全一性として自らの自由を根拠に復活するのである。そしてこの民主派の内的再生は、たんに《量的》変化、すなわちその現在の特殊でしたがって悪しき定有の拡大にとどまらない—それだけだったら、大変である。そのような拡大はたんに普遍化俗化に至るだけで、あげくの果ては絶対無となるのがおちであろう—それはまた《質的》変革、新しく、生き生きとして息吹きに満ちた天啓、新天地、若々しく美しい世界となり、現今のいっさいの不協和音は解消して、調和にあふれた統一に達するであろう。(p14 )
ヘーゲル的弁証法が見て取れる。
絶対的な理念として新世界が想定されているが、これはカントにおける「世界共和国」や「目的の国」、キリスト教における「千年王国」、マルクスにおける「共産主義社会」のような統整的理念である。ユートピア。必然的に、新しい人間自体の創造。
「否定的なものの意味と不可抗の力は、ひとてに肯定的なものの破壊にある」
アナーキズム原理の包括性、普遍性?党派観念は共同観念となることができるか。総体的テロリズム。バクーニンははっきりとアナーキズムは「宗教」であり、自由は「信仰」であると書いている。党派的であることは不可避である。宗教とは党派性。しかし、党派形態は滅びなければならない。ファシズム的発想の萌芽。党派と普遍的原理の関係はいかに。構成的理念と統整的理念。
否定的なものは、肯定的なものに対立しているいかぎりでは孤立しており、そのものとして見れば無内容で死んでいるように思われる。この見かけ上の無内容が、同時に、実証主義者が民主主義に向ける主たる非難となっている。しかし、この非難は誤解に根ざしている。なぜなら、否定的なものはなんら孤立した存在ではなく—もうしそうならば、否定的なものはまったくの無となろう—ただ肯定的なものに対立して存在しているからである。そのいっさいの本質、内容、意義は、ひとえに肯定的なものの破壊にある。「革命的プロパガンダは—とペンタルキストは述べいている—そのもっとも奥深い本質からして、現存国家の《否定》につながる。なぜなら、その内部の本性からして、それは現存するものの破壊以外にはいかなる綱領も有していないからである。」だが、全生命をかけて破壊しなければならない当の相手と、表向き妥協するなどということがあり得るだろうか?そんなことを考えるのは魂のない中途半端な人間だけであって、否定的なものにも肯定的なものにも縁のない人間である。(p15)
実証主義者は存在しているものしかその実在を認めない。現状肯定の勝ち馬乗り。
人間の自由への爆発への情熱的な信頼、眩いばかりの激烈なる自由への信仰、それがバクーニンを特徴づけている。アナーキストを特徴づけていると言っても良い。が、その原理が真理であるとしても、その真理を獲得できる人間は少ない。真理は真理だ。だから、真理の獲得、実現は問題ではあるが、アナーキストは闘争によって、彼自身の存在によって人間存在の真理を証し立てなければならない。

◎反動派の2類型
反動派は2種類に分けられる。《徹底した》反動主義者と《妥協的な》反動主義者である。これらはそれぞれ右翼と保守に対応することができるのだろう。あるいは《妥協的》とはリベラルと言っても相違はあるまい。勿論、バクーニンは《徹底した》反動主義者の方を、《妥協的な》反動主義者よりも高く評価する。前者は「純粋なかたちでの対立を自覚している」のだ。
彼ら(注:《徹底した》反動主義者)は、肯定的なものと否定的なものとが水と油のように、けっして両立し得ないことをわきまえている。彼らには、否定的なものの肯定的本質がわからず、したがって否定的なものを信ずることができないので、そこからごく当然の結論として、肯定的なものは否定的なものを信ずることができないので、そこからごく当然の結論として、肯定的なものは否定的なものを完全に抑圧することによってこれをぜひとも維持しなければならないとする。この場合、肯定的なものは否定的なものに対置されるかぎりでしか肯定的なものとして《与えられず》、また擁護されえない、したがって否定的なものに完全にうち勝って対立を揚棄した場合、それは肯定的なものであることをやめて、やがて否定的なものの実現となる点に彼らが気付いていないこと、この点については大目に見てやる必要がある。なぜなら、肯定的なものにはすべて盲目性がそもそもの付き物であって、洞察は否定的なものだけに備わっているからである。(p16)
強調部分の意味がよくわからない。徹底した弾圧が成功した暁に、民主主義が達成されるという意味ではあるまい。ファシズムが絶対的に勝利すると言っているようなものではないか?
ここでいう否定的なものを次のように解する。絶対的な勝利は、自己の信念の徹底を抜きにしてはありえない。しかし、自己の信念の徹底とは民主主義ということである。純粋であることが実現する=否定的なものの実現。
このような狂信的反動主義者たちは、われわれを異端ときめつける。もしできればの話だが、彼らの歴史の兵器庫からはほかならぬ宗教裁判という兇悪な武器を引き出してきて、われわれをその裁判にかけたいところなのだ。彼らは、われわれにいかなる善いもの、人間的なものの存在も認めず、われわれに反キリストの権化しか見えない。そして反キリストを抑えるにはどんな手段も許されるとする。われわれは同じやり方で、彼らに報復するであろうか?いや、そんなことはわれわれにふさわしくないし、われわれが手足となって果たすべき偉大な任務にとってもふさわしくないだろう。(p17)
ヨーロッパの教会権力の強大さ。

◎一面性と真理
一面性だけに頼る人間にとっては、真理はいずれも武器にすらならない。真理と一面性は対立するからである。すべての一面的なものは、その顕現するところ必ず偏りがあって、しかも狂信的である。その必然の現れは憎しみとなる。なぜなら、一面的なものは自己に敵対する他のいっさいのもの、自己と同じくやはり一面性によって正当化されているいっさいのものを抑圧する以外に、自らを堅持する術がないからである。一つの一面性は、すでにその定有そのものによって諸他の一面性の定有を前提とするが、自己肯定のためには、その本性からして、諸他の一面性を排除しなければならない。この矛盾は一面性にかけられた呪詛、一面性に本然の呪詛であり、人間としての各人に備わる最良の感情をその発現にあたってことごとく憎しみへと変えてしまうものである。(p18)
その点、われわれはかぎりなく恵まれている。党派としてのわれわれは肯定派に敵対し、闘争しており、その闘争によってわれわれのうちにもすべての悪しき情熱が目を覚ます。われわれ自身が党派に属しているかぎり、われわれにも往々にして偏り、また公平を欠くことがある。だがわれわれは、肯定派に敵対する否定の党派にとどまるのではない。絶対的自由というわれわれの包括的な原理には、生命の源泉がある。この原理は肯定派も具有するすべての善なるものを含んでおり、肯定派を越えると同様、党派としてのわれわれ自身をも越えたところにそびえ立っている。党派としてわれわれは政治を追求するだけであるが、かかるものとしてのわれわれは、この原理によってはじめて正当化される。もしそうでなければ、われわれの拠って立つところは肯定派とたいして違わないものとなるだろう。したがって、われわれは自己保存のためにも、われわれの力と生命の本源として、自由の原理に忠実でなければならない。すなわち、純粋に政治的な存在であるというこの一面性を、包括的かつ全面的な原理という宗教にまで、絶えずわれわれは高めてゆかねばならないのである。われわれは政治的に行動しなければならないだけでなく、政治においては宗教的に、自由という意味合いで宗教的に行動しなければならない。ただ一つ、自由の真の表われが正義と愛である。つまりキリスト教の敵として酷評されるわれわれだけに、キリストの崇高な戒律を、真のキリスト教の唯一の眼目である愛を、たとえ熾烈な闘争になろうとも、実現するという最高の任務が与えられているのである。あうりは、それは義務だと言って差し支えない。(p19)
現に生きている、生命が躍動している、生が爆発しているところにこそ自由の原理の根拠があり、この根拠は抽象的で形而上学的な概念規定によるものではなく、人間存在そのものが生み出す現実として存在し、それを内容としているのだ。自由の原理のこの存在論的根拠ゆえに、この原理は普遍的であり、包括的なのである。自由の原理を奉ずる者は誰よりもまず、自由に生きなければならない。自由の生き様を現さなければならない。
正義と愛を、平等と団結と言い換えることもあるいはできるかもしれない。

徹底した反動主義者=徹底した実証主義者。しかし実証主義者は「善なるものに意を払うが、強い意志をはたらかせることができない」、「彼らの最大の不幸は内面の分裂にある」。これはプロレタリアートがイデオロギー生活から精神生活を取り出せずに苦しんでいるとシュタイナーが指摘していることと似ている。
民主派と徹底した反動主義者は本源において似ている。後者は、本源自身の原理から「活力の不足、無力にして満足を得られぬところから憎しみに転じた生と真実への志向がこうむるいっさいの苦しみを、否定の原理のせいだとする」。ニーチェのニヒリズムのような論理。彼らは「善いものを求めて《げんに努力し》、しかも本来善や生き生きとした生を使命としながら、わけのわからぬ不幸な偶然から運命の脇道へそれてしまった」のだ。

妥協的な肯定派の占める位置は、これとはまったく異なる。徹底した肯定派とは違って、さらにそれ以上に現代の鬱屈病にかかりながらも、彼らは否定の原理を絶対悪として無条件に退けないばかりか、その存在の権利を一時とはいえ条件つきで認めさえする。もう一つの違いは、エネルギッシュな純粋性、少なくとも徹底した肯定派がめざし、またわれわれが完全にして全一、誠実な性格の証左として認めたあの純粋性を、彼が持ちあわせていない点である。妥協主義者たちの見地を、逆に、われわれは《理論的不誠実》の立場と定義する。私が「理論的」というのは、いっさいの具体的な個人非難をなるべく避ける方便であり、またたとえ理論的不誠実がその本性の必然からして実践的不誠実に及ぶことを認めざるを得ないにしても、個人の悪しき意志が実際に精神の発展を妨げ得るとは、私自身信じていないからである。(p22)
争いを避けようとする立場。つまり信仰を持たない立場。
ただし徹底した肯定派に比べると、彼らははるかに扱いにくい。前者は自己の信念に対し、実践するエネルギーを持っている。彼らは自己の望むところを承知しており、それを公然と披瀝する。われわれと同様、彼らはいっさいのあいまい、いっさいの不明確を憎む。実践的なエネルギーを持つ性格として、彼らは純良かつ透明な空気のなかでしか自由に呼吸できないからである。妥協派となると、事情はまったく異なってくる。彼らは狡猾、おっと失礼!利口で賢明なのだ!実践のうえで真理をめざす者が、手のこんだ自分たちの理論的構築物をぶち壊しにするのを、彼らはけっして許さない。彼らはあまりに賢明すぎて、あまりに老練すぎて、単純な実践的良心の定言命令には耳を傾けられないのである。彼らはその思弁の高みから、尊大に軽蔑のまなざしで良心を見くだす。単純なものだけが創造的に行動できるからして、単純なものだけが真実で現実的であるとわれわれが言うのに対し、彼らは逆に、複雑なものだけが真実であると確信する。なぜなら、この複雑なものを手に入れるのに彼らは多大な労力を要したからであり、それだけが賢者と愚者、無教養者を判別し得る唯一の手掛かりだという次第である。彼らはすべてをわきまえている。それだけに、もう大変に扱いにくい。あれやこれやで騒ぎたてるのは許しがたい弱さだと考え、またその内政によって物心両界をくまなく探索し、その長くたゆみない理念の旅立ちのあとで、現実t会は苦労して手を触れるほどのこともないという結論に達したのであった。こういう人たちと、なにごとかについて理をわけて話し合うのは難しい。彼らはドイツの諸法令と同じで、一方で奪っておきながら一方で与えるからである。彼らはどんなときでも「そうだ」とか「ちがう」とか確答しないで、「《なるほど》あなたのおっしゃるとおりだが、《それにしても》......」と言い、いよいよ言うことがなくなると、「そう、これは例外だ」とのたまう。(p23)
聞き分けが良いのだ。良い子ちゃんたち。行動していない人間は知的ではありえない。なぜなら深い思考は必ず行動に結びつくからである。行動に達しない思考は知的遊戯である。考えている人間と考えているフリをしている人間の見分け方はそのようなものだ。

続きは次回。