2015年10月9日金曜日

ミハイル・バクーニン『ドイツにおける反動 ー 一フランス人の覚書』①ー絶対的自由という宗教

ミハイル・バクーニン『バクーニン著作集』第1巻(白水社)より、左近毅訳。強調は引用者。

◎自由の信仰
自由、自由の実現、いまやこの合言葉が歴史の日程の冒頭にあることをだれが否定するだろうか?しかも自由の敵見方を問わずそのことを認めているし、また認めなくてはならないのだ。それに、だれしも自分が自由の敵であるとあつかましく公言する者もあるまい。しかし、すでに福音書が知っているように、事実を素直に認めたところでなにもならない。というのは、残念ながら、じつは心の奥底では自由を信じていない人間が相変わらずいるからである。問題そのもののためにも、こういった人たちのことをよく知っておく必要がある。彼らはその性質上、ひじょうに種々雑多だからである。そのうちでまず最初におめにかかるのは、地位が高く年輩の、識見ゆたかな人たちである。青年時代には、彼らとても政治的自由のディレッタントだった。なぜなら、身分の高い金持にとっては、自由や平等についての話題はいくぶんセンセーショナルな楽しみをともなうものであるし、おまけに社交界では倍も人目をひくことになるからだ。ところが、青年期の物事に熱中する力がおとろえてしまったいま、彼らは「経験」のかげに身をひそめてその肉体的精神的老化を隠そうとする——「経験」とは、じつにひんぱんに悪用のきっかけを与えてきた言葉である。だいたいからして、こういう人たちと話合いをするのは無意味である。彼らはいつだって自由をまじめに考えたことはないし、彼らにとって自由が信仰であったことはいちどもない。もっとも深刻な矛盾、もっともつらい苦しみ、完全で無条件の克己にのぞんではじめて、信仰は最大の愉悦、至上の幸福をもたらしてくれるものなのだ。彼らは老残の身で、おっつけよんどころなく彼岸に旅立つことからして、彼らと話合うのは無駄である。(p10)
誰も自由なんて求めちゃいない。「大衆」は特にな。自由からの逃走。

◎信念を抱かぬ若者は日常に埋没している
ところが残念なことに、若い人たちでもこれと同じような信念を抱いたり、あるいはもっと正確に言えば、なんらの信念も抱かぬ者が多い。こういう人たち(しかもこれが大部分なのだ)は、ドイツではそもそもが、政治的にはすでに死んでしまった貴族階級、あるいはブルジョア階級、商人階級、官僚階級に所属している。こういう人たちともかかわり合う必要はない。第一のカテゴリーの、世故にたけ老練で、棺桶に片足つっこんだ人たち以上にかかわり合う必要はないのである。前の第一のカテゴリーの人たちにはまだしも生命の片鱗らしきものがうかがえたが、こちらははじめから生気がなく死んでいるのであって、出世とか金儲けにどっぷりと浸りこんで、自己の日常的な瑣事にすっかり溺れている。彼らは人生や、自分の周囲に生じている事柄についてはなに一つわからないものだから、学校で歴史とか人間の心の発達についてあれこれ教わっていなかったら、たぶん世界はいつも今と同じだと思うにちがいない。これこそ、色あせて幻にもおぼしい人間たちである。彼らは毒にも薬にもならない。生あるものだけが影響を及ぼすのだから、彼らはなんら恐るるに足らない。それどころか、現在ではもう幻影を取りあげるのは流行らない。しがって、われわれもそんなものに時間をさくつもりはないのである。(p11) 
「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている」(マタイの福音書15-8)。僕たちの唇は自由を敬うが、その心は自由への信仰から遠く離れている。

◎反動派とその優勢
革命の原理に反対する人たちの第三のカテゴリー、《反動派》。政治においては《保守派》、法学では《歴史学派》、思惟科学では《実証哲学》と呼ばれている。これらの勢力はいまやいたるところで支配権を握る一派になっている、とバクーニンは書いている。

バクーニンにおいて民主主義という言葉はアナーキズムと同義と見なしてよいだろう。ただ、民主主義の徹底がアナーキズムを意味することは自明であろう。意義なし。
民主派にとって、今は一時ながらも自分たちの力が微弱で、敵の力が相対的に強いことを認識するのがなによりも必要である。このような認識に立ってはじめて、民主派は得体の知れぬ幻想の領域から現実へと踏み入る。民主派は現実のなかに生き、苦悩し、そして結局は勝利するにちがいない。さらにこのような認識に立ってこそ、民主派の呼びかけは周到にして着実なものとなる。そして現実のつらい試練を経てはじめて、民主派は自己の神聖な任務に目覚めるのである。いたるところで行手をさえぎり、しかもじつは往々にして思いこんでいるように敵の蒙昧主義ではなくて、むしろ抽象的な理論では汲みつくせぬ人間性の豊かさと多様性に起因する、はてしない困難を通して、民主派が自己の現存在の不完全をことごとく悟り、それを悟ることによって、敵は外部にいるばかりか少なからず自分自身の内にいること、そしてまずこの内部の敵にうち勝つところから始めるべきことを理解するときこそ、さらに民主主義がなにも漢検に反対したり、なんらかの特殊な憲法上の改革や政治=経済上の改革に限られるのではなく、全世界の機構を完全に変革し、史上例を見ないまったく新しい生活を予告するものであることを確信するときこそ、そして以上の点から、民主派が民主主義は宗教であることを理解し、それによって自らも宗教的になる、つまり思惟と判断において自己の主義をつらぬいているだけでなく、実際にも、ちょっとした生活の現象でも主義に挺身するときにこそはじめて、民主派は現実の中で全世界に勝利するのである。(p13)
まったく新しい生活、それはなんだ?我々はいつだって歌い踊り舞い舐めては喰らい、戦っては死ぬ。いや、誰も踊ってなどない。歌ってなどない。日陰のアスファルトに生える、しなだれたたんぽぽのような生活。
理想追求の生活における現実的苦悩の一つは経済的困窮である。社会的苦悩は周囲から白眼視され、理想を理解されないことである。それが理想を追求する者に運命づけられているものである。しかし、最後には必ず勝利するだろう。歴史の終局は歴史の始まりである。誰もが皆、この地点で悩む。この理想と現実との関係に対する距離を測るのだ。
大なる理想を孕める者は、その理想が自分の内面に作用する力を刻々に感ずるであらう。此理想を實現するの困苦を泌々と身に覺えるであらう。さうして征服し盡されず、淨化し盡くされず、高揚し盡くされざる自分の現實に就いて堪へ難い羞恥を感ずるであらう。而も彼には直接内面の心證あるが故に、此屈辱と羞恥の感情を以つてするも、猶ほ此理想を抛擲することが出來ない。理想を負ふ者の矛盾と苦痛と自責と屈辱とを耐へ忍ぶ事は避く可からざる彼の運命である。
 併し理想を負ふ者の苦しみを嘗め知らざる者は、此間の悲痛に就いて同情を寄せる事が出來ない。彼等は輕易に理想家の内に行はるゝ理想と生活との矛盾を指摘して、直に理想そのものと理想家その人とを否定する。故に理想家は内面的矛盾の苦しみの外に、又社會の罵詈と嘲笑とをも忍ばなければならない。トルストイのやうな一生は實に理想を負ふ者の代表的運命である。多かれ少かれ、理想を内に孕めるものはトルストイの運命を分たなければならないのである。
 逃げむと欲する者は逃げよ。逃げむと欲するも逃げ得ぬ者は勇ましく此悲痛なる運命を負ふのみである。(阿部次郎『三太郎日記』その二
バクーニンは、反動派の勢威が偶然によるのではなく、必然によることを率直にうけとめ、むしろ近代精神に深く根ざしたものであることを認めたいと言う。民主派は、たんに現状の《否定》として存在する《にすぎない》。

現実社会で反動派が多数派、主流派、支配的イデオロギー、権力を握っている以上、それは「肯定的なもの」と呼ばれる。「否定的なもの」である民主派の存在によってそう呼ばれる。
民主派は自己の原理を確信するに至っておらず、したがってたんに現状の《否定》として存在するに《にすぎない》。かかるものとしてあるかぎり、ただ否定にとどまるかぎり、どうしても民主派は統一ある生活全体の外側に立つことになるし、もっぱら否定の意味に解されたその原理からは、生活全体を展開することはまだできない。だからこそ、それは今日に至ってもたんなる党派であって、まだ生きた現実とはならず、未来のものではあっても現実のものとはならないのだ。民主主義たちは党派を、それも外的存在条件のために微弱な党派を形成しているにすぎないこと、しかもたんに党派としてはもう一つの、彼らに対立する強力な党派の存在が予想されること、この一事をもってしても、彼らは自分たち自らの欠陥、必然的につきまとう欠陥に対し眼を開かねばならないだろう。その本質、その原理からすれば、民主派は普遍的、包括的であるが、その党派としての存在からすればある特殊なもの、《肯定的なもの》に対峙するのである。否定的なものの意味と不可抗の力は、ひとえに肯定的なものの破壊にある。だがそれは悪しき定有、特殊な定有、本質上不敵な定有として、肯定的なものとともに自らも破滅の道をたどる。民主主義はそれ自体まだ肯定の豊かさのなかに存在するのではなく、肯定的なものの否定として存在するのであって、それゆえ民主主義はその未完の姿で肯定的なものとともに滅びなければならず、その後で自己の生きた全一性として自らの自由を根拠に復活するのである。そしてこの民主派の内的再生は、たんに《量的》変化、すなわちその現在の特殊でしたがって悪しき定有の拡大にとどまらない—それだけだったら、大変である。そのような拡大はたんに普遍化俗化に至るだけで、あげくの果ては絶対無となるのがおちであろう—それはまた《質的》変革、新しく、生き生きとして息吹きに満ちた天啓、新天地、若々しく美しい世界となり、現今のいっさいの不協和音は解消して、調和にあふれた統一に達するであろう。(p14 )
ヘーゲル的弁証法が見て取れる。
絶対的な理念として新世界が想定されているが、これはカントにおける「世界共和国」や「目的の国」、キリスト教における「千年王国」、マルクスにおける「共産主義社会」のような統整的理念である。ユートピア。必然的に、新しい人間自体の創造。
「否定的なものの意味と不可抗の力は、ひとてに肯定的なものの破壊にある」
アナーキズム原理の包括性、普遍性?党派観念は共同観念となることができるか。総体的テロリズム。バクーニンははっきりとアナーキズムは「宗教」であり、自由は「信仰」であると書いている。党派的であることは不可避である。宗教とは党派性。しかし、党派形態は滅びなければならない。ファシズム的発想の萌芽。党派と普遍的原理の関係はいかに。構成的理念と統整的理念。
否定的なものは、肯定的なものに対立しているいかぎりでは孤立しており、そのものとして見れば無内容で死んでいるように思われる。この見かけ上の無内容が、同時に、実証主義者が民主主義に向ける主たる非難となっている。しかし、この非難は誤解に根ざしている。なぜなら、否定的なものはなんら孤立した存在ではなく—もうしそうならば、否定的なものはまったくの無となろう—ただ肯定的なものに対立して存在しているからである。そのいっさいの本質、内容、意義は、ひとえに肯定的なものの破壊にある。「革命的プロパガンダは—とペンタルキストは述べいている—そのもっとも奥深い本質からして、現存国家の《否定》につながる。なぜなら、その内部の本性からして、それは現存するものの破壊以外にはいかなる綱領も有していないからである。」だが、全生命をかけて破壊しなければならない当の相手と、表向き妥協するなどということがあり得るだろうか?そんなことを考えるのは魂のない中途半端な人間だけであって、否定的なものにも肯定的なものにも縁のない人間である。(p15)
実証主義者は存在しているものしかその実在を認めない。現状肯定の勝ち馬乗り。
人間の自由への爆発への情熱的な信頼、眩いばかりの激烈なる自由への信仰、それがバクーニンを特徴づけている。アナーキストを特徴づけていると言っても良い。が、その原理が真理であるとしても、その真理を獲得できる人間は少ない。真理は真理だ。だから、真理の獲得、実現は問題ではあるが、アナーキストは闘争によって、彼自身の存在によって人間存在の真理を証し立てなければならない。

◎反動派の2類型
反動派は2種類に分けられる。《徹底した》反動主義者と《妥協的な》反動主義者である。これらはそれぞれ右翼と保守に対応することができるのだろう。あるいは《妥協的》とはリベラルと言っても相違はあるまい。勿論、バクーニンは《徹底した》反動主義者の方を、《妥協的な》反動主義者よりも高く評価する。前者は「純粋なかたちでの対立を自覚している」のだ。
彼ら(注:《徹底した》反動主義者)は、肯定的なものと否定的なものとが水と油のように、けっして両立し得ないことをわきまえている。彼らには、否定的なものの肯定的本質がわからず、したがって否定的なものを信ずることができないので、そこからごく当然の結論として、肯定的なものは否定的なものを信ずることができないので、そこからごく当然の結論として、肯定的なものは否定的なものを完全に抑圧することによってこれをぜひとも維持しなければならないとする。この場合、肯定的なものは否定的なものに対置されるかぎりでしか肯定的なものとして《与えられず》、また擁護されえない、したがって否定的なものに完全にうち勝って対立を揚棄した場合、それは肯定的なものであることをやめて、やがて否定的なものの実現となる点に彼らが気付いていないこと、この点については大目に見てやる必要がある。なぜなら、肯定的なものにはすべて盲目性がそもそもの付き物であって、洞察は否定的なものだけに備わっているからである。(p16)
強調部分の意味がよくわからない。徹底した弾圧が成功した暁に、民主主義が達成されるという意味ではあるまい。ファシズムが絶対的に勝利すると言っているようなものではないか?
ここでいう否定的なものを次のように解する。絶対的な勝利は、自己の信念の徹底を抜きにしてはありえない。しかし、自己の信念の徹底とは民主主義ということである。純粋であることが実現する=否定的なものの実現。
このような狂信的反動主義者たちは、われわれを異端ときめつける。もしできればの話だが、彼らの歴史の兵器庫からはほかならぬ宗教裁判という兇悪な武器を引き出してきて、われわれをその裁判にかけたいところなのだ。彼らは、われわれにいかなる善いもの、人間的なものの存在も認めず、われわれに反キリストの権化しか見えない。そして反キリストを抑えるにはどんな手段も許されるとする。われわれは同じやり方で、彼らに報復するであろうか?いや、そんなことはわれわれにふさわしくないし、われわれが手足となって果たすべき偉大な任務にとってもふさわしくないだろう。(p17)
ヨーロッパの教会権力の強大さ。

◎一面性と真理
一面性だけに頼る人間にとっては、真理はいずれも武器にすらならない。真理と一面性は対立するからである。すべての一面的なものは、その顕現するところ必ず偏りがあって、しかも狂信的である。その必然の現れは憎しみとなる。なぜなら、一面的なものは自己に敵対する他のいっさいのもの、自己と同じくやはり一面性によって正当化されているいっさいのものを抑圧する以外に、自らを堅持する術がないからである。一つの一面性は、すでにその定有そのものによって諸他の一面性の定有を前提とするが、自己肯定のためには、その本性からして、諸他の一面性を排除しなければならない。この矛盾は一面性にかけられた呪詛、一面性に本然の呪詛であり、人間としての各人に備わる最良の感情をその発現にあたってことごとく憎しみへと変えてしまうものである。(p18)
その点、われわれはかぎりなく恵まれている。党派としてのわれわれは肯定派に敵対し、闘争しており、その闘争によってわれわれのうちにもすべての悪しき情熱が目を覚ます。われわれ自身が党派に属しているかぎり、われわれにも往々にして偏り、また公平を欠くことがある。だがわれわれは、肯定派に敵対する否定の党派にとどまるのではない。絶対的自由というわれわれの包括的な原理には、生命の源泉がある。この原理は肯定派も具有するすべての善なるものを含んでおり、肯定派を越えると同様、党派としてのわれわれ自身をも越えたところにそびえ立っている。党派としてわれわれは政治を追求するだけであるが、かかるものとしてのわれわれは、この原理によってはじめて正当化される。もしそうでなければ、われわれの拠って立つところは肯定派とたいして違わないものとなるだろう。したがって、われわれは自己保存のためにも、われわれの力と生命の本源として、自由の原理に忠実でなければならない。すなわち、純粋に政治的な存在であるというこの一面性を、包括的かつ全面的な原理という宗教にまで、絶えずわれわれは高めてゆかねばならないのである。われわれは政治的に行動しなければならないだけでなく、政治においては宗教的に、自由という意味合いで宗教的に行動しなければならない。ただ一つ、自由の真の表われが正義と愛である。つまりキリスト教の敵として酷評されるわれわれだけに、キリストの崇高な戒律を、真のキリスト教の唯一の眼目である愛を、たとえ熾烈な闘争になろうとも、実現するという最高の任務が与えられているのである。あうりは、それは義務だと言って差し支えない。(p19)
現に生きている、生命が躍動している、生が爆発しているところにこそ自由の原理の根拠があり、この根拠は抽象的で形而上学的な概念規定によるものではなく、人間存在そのものが生み出す現実として存在し、それを内容としているのだ。自由の原理のこの存在論的根拠ゆえに、この原理は普遍的であり、包括的なのである。自由の原理を奉ずる者は誰よりもまず、自由に生きなければならない。自由の生き様を現さなければならない。
正義と愛を、平等と団結と言い換えることもあるいはできるかもしれない。

徹底した反動主義者=徹底した実証主義者。しかし実証主義者は「善なるものに意を払うが、強い意志をはたらかせることができない」、「彼らの最大の不幸は内面の分裂にある」。これはプロレタリアートがイデオロギー生活から精神生活を取り出せずに苦しんでいるとシュタイナーが指摘していることと似ている。
民主派と徹底した反動主義者は本源において似ている。後者は、本源自身の原理から「活力の不足、無力にして満足を得られぬところから憎しみに転じた生と真実への志向がこうむるいっさいの苦しみを、否定の原理のせいだとする」。ニーチェのニヒリズムのような論理。彼らは「善いものを求めて《げんに努力し》、しかも本来善や生き生きとした生を使命としながら、わけのわからぬ不幸な偶然から運命の脇道へそれてしまった」のだ。

妥協的な肯定派の占める位置は、これとはまったく異なる。徹底した肯定派とは違って、さらにそれ以上に現代の鬱屈病にかかりながらも、彼らは否定の原理を絶対悪として無条件に退けないばかりか、その存在の権利を一時とはいえ条件つきで認めさえする。もう一つの違いは、エネルギッシュな純粋性、少なくとも徹底した肯定派がめざし、またわれわれが完全にして全一、誠実な性格の証左として認めたあの純粋性を、彼が持ちあわせていない点である。妥協主義者たちの見地を、逆に、われわれは《理論的不誠実》の立場と定義する。私が「理論的」というのは、いっさいの具体的な個人非難をなるべく避ける方便であり、またたとえ理論的不誠実がその本性の必然からして実践的不誠実に及ぶことを認めざるを得ないにしても、個人の悪しき意志が実際に精神の発展を妨げ得るとは、私自身信じていないからである。(p22)
争いを避けようとする立場。つまり信仰を持たない立場。
ただし徹底した肯定派に比べると、彼らははるかに扱いにくい。前者は自己の信念に対し、実践するエネルギーを持っている。彼らは自己の望むところを承知しており、それを公然と披瀝する。われわれと同様、彼らはいっさいのあいまい、いっさいの不明確を憎む。実践的なエネルギーを持つ性格として、彼らは純良かつ透明な空気のなかでしか自由に呼吸できないからである。妥協派となると、事情はまったく異なってくる。彼らは狡猾、おっと失礼!利口で賢明なのだ!実践のうえで真理をめざす者が、手のこんだ自分たちの理論的構築物をぶち壊しにするのを、彼らはけっして許さない。彼らはあまりに賢明すぎて、あまりに老練すぎて、単純な実践的良心の定言命令には耳を傾けられないのである。彼らはその思弁の高みから、尊大に軽蔑のまなざしで良心を見くだす。単純なものだけが創造的に行動できるからして、単純なものだけが真実で現実的であるとわれわれが言うのに対し、彼らは逆に、複雑なものだけが真実であると確信する。なぜなら、この複雑なものを手に入れるのに彼らは多大な労力を要したからであり、それだけが賢者と愚者、無教養者を判別し得る唯一の手掛かりだという次第である。彼らはすべてをわきまえている。それだけに、もう大変に扱いにくい。あれやこれやで騒ぎたてるのは許しがたい弱さだと考え、またその内政によって物心両界をくまなく探索し、その長くたゆみない理念の旅立ちのあとで、現実t会は苦労して手を触れるほどのこともないという結論に達したのであった。こういう人たちと、なにごとかについて理をわけて話し合うのは難しい。彼らはドイツの諸法令と同じで、一方で奪っておきながら一方で与えるからである。彼らはどんなときでも「そうだ」とか「ちがう」とか確答しないで、「《なるほど》あなたのおっしゃるとおりだが、《それにしても》......」と言い、いよいよ言うことがなくなると、「そう、これは例外だ」とのたまう。(p23)
聞き分けが良いのだ。良い子ちゃんたち。行動していない人間は知的ではありえない。なぜなら深い思考は必ず行動に結びつくからである。行動に達しない思考は知的遊戯である。考えている人間と考えているフリをしている人間の見分け方はそのようなものだ。

続きは次回。