2015年10月11日日曜日

ミハイル・バクーニン『ドイツにおける反動 ー 一フランス人の覚書』②ー破壊の実践精神

ミハイル・バクーニン『ドイツにおける反動 ー 一フランス人の覚書』①ー絶対的自由という宗教の続き。

肯定的なもの(反動派)と否定的なもの(民主派)との対立。この時、否定的なものは絶対的自由を意味する。この絶対的自由があらゆる反動的なものを否定し、破壊することを正当化する。バクーニンにおける絶対的自由とは何なのだろう。この絶対的な破壊性を帯びる否定的なものは、新しく創造される文化の足場をどこに求めれば良いのだろう。

妥協的な反動主義者は、反動派と民主派の対立において双方の立場が一面的なものであると批判する。そして、真理はその中間にあると述べ、相互に結合することを求める。「一見したところ、この推論は反駁しがたいようである」。
確かにわれわれ自身も認めたように、肯定に対立してさらにその対立に際して自己の内に閉じこめられているかぎり、否定の原理は一面的であることを免れない。(p24)
しかしそれは現実に可能ではない。なぜなら、「否定的なものの意味は、肯定的なものの破壊にこそある」からである。

◎隠された統一
一面的な二つの項を包摂するものとしての対立それ自体は、全一的であり、絶対的であり、真理である。その一面性とそれに連なる皮相性、貧困を非難してはならない。そこには否定的なものと肯定的なものが含まれ、すべてを包摂するものとしてそれは全一的であり、絶対的であり、自己を措いては完全性を持たないからである。このような状況から、一面性を持つ二つの項の一方だけを取りあげるのではなく、両者を必然的な関係のなかでなんらかの全一性としての不可分な関係のなかで取りあげる必要を、妥協派は主張する。彼らの言うところによると、対立だけが真理なのであって、それ自体として取りあげられた対立諸概念の各々は一面的で、しがって正しくない。それゆえ真理を獲得するには、対立をその全一性において取りあげねばならないことになる。ところが、まさにこの点から困難が生じ始める。対立は確かに真理である。しかしそれはかかるものとして存在するのではなく、それが発現するのはこのような全一性としてではない。それは自己の内部においてのみ実在する隠れた全一性であって、まさにその存在が肯定的なものと否定的なものという二つの項と矛盾する分裂になっているのだ。全一的真理としての対立は、一つになっている単一性と自己分裂性との不可分な統一である。これはその内部に存在する、隠れた、と同時に間近では把握されない本性であって、この統一が隠されているからこそ、対立は両項の分裂として一面的に存在することになる。それは肯定的なものと否定的なものとしてしか発言せず、しかもこの両者は互いにきびしく排除しあうので、この相互排除がそれらの本性となる。だがそうなると、対立の全一性をどのように理解すればよいのか?それには、二つの方式が可能と思われる。意識的に分裂を無視し、対立の単純で分裂に先立つ全一性に目を向けるべきだとするのが一つ。しかしこれは不可能である。かつて把握し得なかったものは依然として把握し得ないし、対立それ自体は直接には分裂によってのみ存在し、それを措いては存在しないからである。もう一つは、対立する項を慈母の愛をもって和解させようとする方法である。妥協派のねらいのいっさいは、ここにある。(p26)

対立が存在する。対立物が互いに一面的であり、片方だけでは真理ではない。しかし対立自体が真理であり、その調停をすれば真理に到達すると考えることはできない。その対立が発生した本源的な場処がある。対立物それ自体が生じてくるようなある全一性の場が存在している。しかしその隠された場を把握することはできない。そのような場が存在する時、そこには必ず対立が存在しているからである。対立の先立つ全一性はあるだろう、しかし対立もあるだろう。この部分のバクーニンの説明をうまく理解することができない。通常取られるであろう原理的な思考を真っ先に否定している。

◎肯定的なもの=無運動性、否定的なもの=運動性
なにはともあれ、あらゆる運動は否定に通ずるのである。そして肯定的なものは、まさにそれ自体無運動性が措定されるものであり、絶対的無運動として反省されるものである。ところが、無運動の反省は運動の反省と密接に関連している。あるいはもっと正確に言うと、両者は同じ一つの反省を構成しているのだ。このように、絶対的定状態である肯定的なものは、絶対的不定状態である否定的なものとの関連においてのみ、はじめて肯定的なものとなる。肯定的なものは自己の内部において静止し、それ自身生きた規定としての否定的なものに関係づけられている。こうして、肯定的なものは、否定的なものに対して二重の立場を有することになる。一方では、自己自らの内に静止し、関係を排除するこの定状態のなかで、なんら否定の原理とのつながりを持たない。しかし、もう一方では、まさにこの無運動性のおかげで、自己の内部で否定的なものに対立するものとして、それは否定的なものを活発に自己の内から排除しようとする。だがこの排除の活動は運動であって、かくして肯定的なものはまさに自己の肯定性のおかげで、自己それ自体にかんして肯定的でないもの、否定的なものとなる。自己の内から否定的なものを排除することによって、それは自己そのものから自己を排除し、自ら自己を破壊へと追いやる。(p27)
肯定的なもの(それ自体であるもの)はそれ自体を自覚しない。しかし、否定的なものは、これに対立し、破壊の運動をしかけることによって、肯定的なものを現す。
革命勢力と警察との関係のようなものとして考える。強調部位のバクーニンの論理、結論はよくわからない。なぜそう結論されるのか。排除が運動であり、運動が否定を意味するとしても、肯定的なものが破壊されるとは限らないだろう。帝国は帝国であることをやめない。政治の話をしているのか、哲学の話をしているのか、社会の話をしているのか、生命の話をしているのか、人間存在の話をしているのか、わからなくなってくる。

秩序の話をしているのか。
バクーニンにとって、否定的なものとは肯定的なものの破壊である。そこに価値がある。それだけが生命を与えるからである。

◎対立における否定的なものの優位
肯定的なものと否定的なものは、妥協派の考えるように同義ではない。対立は均衡ではなく、対立のうちでは優勢な契機を構成する否定的なものが《優位》になる。肯定的なものそれ自体の死命を制する否定的なものは、自己のなかだけに対立の全一性を含んでいる。したがって、絶対的に権能を有している。おそらく、私は質問されるだろう。それ自体として抽象的に取りあげられた否定的なものは、肯定的なものと同様に一面的であり、現在の不完全な形でそれを普及させることは全世界の卑俗化を意味するのを、あなた自身認めないのか、と。確かにそのとおりだが、私が申しあげたのは否定的なものの現在の存在形態、肯定的なものによって排除され、自己の内に静止したまま閉ざされており、その結果肯定的なものと転じている否定的なものについてだけである。このような形態では、否定的なものもやはり肯定的なものによって否定され、徹底した肯定派は否定的なものの存在、定状態にあるその自己閉鎖を排斥するとき、論理的には神聖な義務を果たしていることになる。だが、彼らは自分で自分のしていることがわからない。彼らは自分たちが否定的なものを否定していると思いこんでいるが、実際には、それ自体が肯定的なものになるかぎりでしか否定していない。彼らは否定的なものを本来の姿ではない俗物的安穏からゆり起こし、肯定的で確立されたいっさいの破壊という偉大な使命へと、否定的なものをたち帰らせるのである。(p28)

解ったぞ、肯定的なものとは自足的なものであり、即自的なものであるのに対して、否定的なものは破壊的であり、自己破壊であり、自足的なものの破壊へと突き進む。スピノザのコナトゥスとニーチェのコナトゥス批判のように考えれば良いのだ。そして、否定するものであったものが活動を停滞させ、定常状態に入ることをも、バクーニンは否定しているのだ。バクーニンにとっては、どこかの田舎でコミューンをつくって慎ましく暮らそうという発想などは弾圧されて然るべきなのだろう。死回避行動(death avoiding behavior)と生命行動(living behavior)とパラフレーズしても良い。ある肯定的なものと否定的なものがあり争っているのではなくて、ある肯定的なもの(例えば国家)と対立している否定的なもの(革命組織)でさえも肯定的なもの(活動のルーティーン化、あるいは形骸化)になりうるのだ(謂わば妥協的民主派)。そして、そのような否定的なものなど破壊されることをバクーニンは望む。締め付ければ締め付ける程、否定の力は先鋭化する。

◎否定の原理は非利己的であること
否定的なものが自己の内に静止し、利己的に閉じこもり、かくして自らを裏切るなら、肯定的なものと否定的なものは等価であることを認めよう。だが否定の原理は利己的であってはならない。愛をもって、肯定的なものに身を委ねなければならない。それが肯定的なものを吸収し、破壊というこの宗教的で信仰あふれる命をかけた大事業において、その本性の汲めどもつきぬ未来をはらんだ深みを開示するため、ぜひともそれが必要なのだ。肯定的なものは否定的なものによって否定され、逆に、否定的なものは肯定的なものによって否定される——両者に共通なものはなんであろうか?そして両者のうち、いずれが高次なのであろうか?たとえ肯定的なものが否定的なものを隠れみのにしようとも、それを否定し、破壊へと追いやり、積極的に揚棄する、ただこのようなはてしない否定としてのみ否定的なものは存在の権利をもつのであり、それ自体としての絶対的な正当性を得る。なぜなら、かかるものとしてはじめて、それは実践精神に不可視的に内在する対立においても正当性を持つからである。実践精神は、この破壊的激情によって妥協派の罪にけがれた魂に懺悔を命じ、真に民主主義的で全人類的な自由の教会で、間近きキリストの再臨と天啓を告げるのである。(p29)
否定的なものが肯定的なものを否定することによって、肯定的なもの自体が否定的なものになること。
さっぱり意味がわからなくなってきた。

◎否定的なものによる肯定的なものの自己解体
肯定的なもののこのような自己解体は、肯定的なものと否定的なものとのただ一つ可能な紐帯である。なぜなら、自己解体は対立そのもののエネルギーへと向かう内在的全一的な運動であって、したがってこれらの原理を媒介するほかのどんな方法も恣意的であり、他の方法を求める者はいずれもそれだけで自分がまだ時代精神に満たされておらず、しがって愚鈍か無定見であることを証明するはめとなるのだ。この時代精神に完全に身を挺し、それを具有する人間だけが聡明で道義正しいと認められる。対立は全一的で、真理である。この点については、妥協派も反駁しない。全一的なものとしてのそれは終始生命を有しており、その包括的な生のエネルギーは、今しがた見たとおり、否定的なものの純粋な焔による肯定的なものの自己燃焼のなかに現れる。(p30)
否定的なものの全体性、ユートピア精神。アンチ現状。永遠の反逆。反逆の徹底。理想の徹底。終わりなき運動。
否定的なものとの生き生きとした闘争、対立の生き生きとした存在という現実性。
闘争の時に、対立の時に現れるこの精神の全体性の肯定。

創造する立場、創造する者は破壊しなければならない。場所を開けさせなければならない。中途半端な仕事で創造はできない。

◎妥協派の無力
なるほど、私は次のように反論されるかもしれない。あなたには妥協派の努力が黒く、より正確に言えば灰色に見えるのだ。だが彼らが衷心から欲しているのは、ただ一つ目標としているのは進歩である。彼らは、あなた自身も及ばぬぐらい進歩に貢献している。全世界の転覆を願う民主主義者たちのように思いあがりからではなく、彼らは理性的に問題に接近しているからだ、と。しかし妥協派のめざす虚構の進歩がいかなるものか、われわれがすでに見てきたところであって、現代を惨状から救う唯一の生き生きとした原理に対する抑圧、解放運動という創造的で未来豊かな原理に対する抑圧に他ならないものとして、それはたち現れている。われわれ同様彼らも、現代が対立の時代であることをはっきりと理解している。それが醜悪で、内部分裂の状態である点については、彼らもわれわれに同意する。ところが、それをどこまでも徹底させ、新しい、肯定的で有機的な実在性へと移行させる代わりに、彼らは無限の漸進によって、それを現在のような惨めで虚弱な状態に永遠に維持しようと願うのである。はたしてこれが進歩だろうか?彼らは肯定派に言う。「古きを温存したまえ。ただし同時にそれを否定派に少しずつ壊させてやりたまえ。」そして否定派に向かっては、こう言うのである。「古きを破壊したまえ。ただし、いつでもあなたがたに仕事が残るように、ほどほどにやりたまえ。」そして否定派に向かっては、こう言うのである。「古きを破壊したまえ。ただし、いつでもあなたがたに仕事が残るように、ほどほどにやりたまえ。つまりそれぞれの一面性を残しておきたまえ。そうすれば、われわれエリートが自らのために全一性を確保して楽しめるから。」——なんたる哀れな全一性か!こんなものに満足できるのは、心貧しき者だけである。彼らは対立から運動する実践的精神を奪い去り、対立を勝手気ままに制御できるのを喜んでいるのだ。現代の偉大な対立は、彼らにとっていささかも現代の実践力ではなく、たんなる理論上の手なぐさみにすぎない。もし生き生きとしたものでありたいと願うなら、それぞれの生きた人間は実践力を身につけるべきである。彼らは時代の実践精神にあふれていないからこそ、人倫を欠いた人々なのだ。彼らが自己の道徳性を誇示すればするほど、人倫を欠いた人間となる。なぜなら、自由な人間性という至福の教会の外では、人倫などあり得ないからである。(p34)
社会には膜がある。膜の名前はヒューマニズムと呼ばれる。
マルクスが労働組合は共産主義の学校と呼んだことに似ている。
実践精神を欠いた者に人倫や、自由など獲得できない、俺もそう思う。
理論で云々する者よりも、自由な人間を創造することの方が大事だ。

自由=否定。

近代的理念は普遍的であり包括的であり世界的であることを標榜する理念である。この理念の完全なる実現をめざす。普遍宗教。もちろんその理念の実現はなされていない。

自由・平等・博愛の実現を求める実践運動が、現存政治社会体制の完全の廃棄を意味することに異論はない。これは宗教運動である。革命家とは近代的な宗教家である。
革命家とはズバリどんな仕事ですか?「ズバリ神の代理人です。革命とは近代的な宗教であり、その指導者たる革命家はつまり近代的な宗教家です」(外山恒一『革命家になるには?』
◎妥協派の分別、われわれの時代のペスト
諸君、最後にご自身を反省していただきたい、そして率直に言っていただきたい。あなたがたは自らに満足しているのだろうか?また、満足できるのだろうか?あなたがた自身、例外なしに、惨めで哀れな現代の、さらに惨めで哀れな現象を代表しているのではなかろうか?あなたがたは、矛盾だらけではないだろうか?あなたがたは完全な人間だろうか?あなたがたは、現実になにかを信じているのだろうか?なにを望んでいるのか、自分でご存知なのだろうか?大体からして、あなたがたは望むことができるのだろうか?現代の分別というこのわれわれの時代のペストは、あなたがたのなかに一箇所でも生きた部分を残しただろうか?あなたがたは頭のてっぺんから爪先まで分別に覆われ、分別に麻痺し、分別にさいなまれているのではないだろうか?諸君、実のところ認めてもらわねばならないが、現代は悲惨の時代であって、われわれはみなそのいっそう悲惨な申し子なのだ。(p42)
『ドイツにおける反動』を読んで解るのは、バクーニンは明確にアナーキズム(近代的理念の徹底)を宗教として理解していることだ。宗教運動だからこそ、徹底性や情熱がある。革命を起こすのは原理主義なのである。

◎破壊への情熱は、創造への情熱
いたるところで、とりわけフランスやイギリスでは社会主義的宗教的な結社がつくられつつある。これらは今日の政治世界とはまったく無縁であり、完全に新しい、われわれのあずかり知らぬ源からその生命を汲み取り、ひそかに普及発展させている。疑いもなく人類の大半を構成する人民、貧困階級は、すでに理論的にはその権利が認められているものの、出生と境遇のために、これまで無産階級、文盲したがって事実上の奴隷状態におかれてきたのであった——元来が真の人民を構成するこの階級は、いたるところで脅威的な地位を占めつつあり、比較的弱い敵の戦列を味方に引きこんで、すでに公認の自己の権利を実体化すべく要求し始めているのだ。すべての人民が、すべての人々がなぜとはなしに予感を抱き、動脈硬化に陥っていないすべての人々が期待に胸を震わせながら、解放の言葉を宣する来るべき未来を見守っているのだ。われわれにとって未知の、そして偉大な未来の近づきつつあるロシアのような、雪にとざされた永劫の王国にすら、雷雨をはらんだ暗雲がたれこめようとしているのだ!おお、大気は熱気を秘め、嵐をはらんでいる!
 だからこそ、われわれは迷える同胞たちに呼びかける、悔い改めよ!悔い改めよ!神の御国は近いのだ!
 われわれは肯定派に申しあげる。「あなたがたの心の眼を開き、死人の埋葬は死人にまかせ、そして最後に、永遠に若き精神、永遠に再生する精神は崩れ落ちた廃墟のなかには求め得ないことを得ない!」そして真理に対しその心を開き、惨めで盲目の英知から解放され、心を枯渇させ運動を阻んでいる理論的高慢と奴隷的恐怖心を捨て去るよう、われわれは妥協派に勧告する。
 永遠の破壊と廃絶の精神を信じようではないか。それだけが、いっさいの生命の汲めども尽きせぬ永遠が創造の泉なのだ。破壊への情熱は、同時に創造への情熱なのだ!(p42)